昭和56年1月1日 元旦祭



 皆様、あけましておめでとうございます。皆さん本当におめでたいでしょうか。お正月だから、挨拶で言わなければならないというような、あの、おめでとうございます。作ったおめでとうございますではいけない。信心さして頂く者は、心からのおめでとうございますが日々言えれるおかげを頂くことです。締め飾りをしたり、門松を立てたり、お雑煮を祝うたり、お屠蘇を頂いておめでとうございます。言うなら、演出してでも、まあ、有り難い、めでたい気分になりたいというのでございましょうけれども、そういう演出がなくても日々があけましておめでとうございます。
 教祖生神金光大神様の生きられ方は、そのような日々でおありになっただろうと想像されます。ね。日が暮れたら大晦日と思え、夜が明けたら元日と思うてと。そういう日々を教祖様は、ご自身体験なさって。私も昨日の除夜祭を奉仕さしてもらえ、今朝からの朝の御祈念を通常どおりにさしてもらえ、そしてこの元旦式をまあ、奉仕さしていただいたわけですけれども、以前のようになにかしらん、こう、みずみずしいと言うか、張りきったような、いわゆる元日気分と言うものが一向に出てこない。
 いやむしろ、忘れておるぐらいである。ね。今日も朝の御祈念を当たり前に奉仕さしてもろうて、当たり前に御理解頂いてしもうて、頂いてしもうた後で、あっ今日は元日でしたねと言うて改めて朝参りの方達におめでとうございますを言うたようなことでしたが。ね。これは、私が最近おかげをいただいておる、まあ一つの実証でもあろうかと思うのです。 もういつもが、元日のような、または大晦日のような思いで日々を言うならば朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さを繰り返させて頂いておりますから、もうそこには盆もなかならければ正月もない。言えるなら毎日が、やあおめでとうとこう言えたような心の状態でございます。ね。だから、わざわざ演出しなくても、わざわざ紋付袴を付けなくてもこう正月の気分というものを日々こう、味あわせていただいておる。そこには、元日に美味しいものを頂いたり、飲んだり、見せてもろうたりして楽しませていただくような日々が約束される。ね。
 せっかく信心をさせて頂くのですから、今朝の御理解37節でしたでしょうか。有り難く頂いて帰ればおかげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。と教えられる御教えがございます。有り難く頂いて帰ると言う事はただ聞いて帰ればと言う事ではない。聞いて帰ってなるほどそうだな、正しく先生が言われるとおりだな。私のあり方が間違っておったなと気づかしてもらい、そこから信心精進が始まる。それがお徳の元になるのです。ね。
 私、今朝のご心眼に、ああー何処だろうかとこう思ったんですけども、ご理解を頂き、頂き、37節を頂いて初めて気付かせて頂いたんですけども、大きな、とてつもない大きな昔ございましたね、しな焼き火鉢が。大きな、ね。炭火を熾す、火鉢です。その大きな火鉢にいっぱい灰が入っておる。それにもうグリグリするように、火がいれてある。側に行くと熱いごとある。かと言うて側にいきゃあ下の方は冷たい。灰があんまりいっぱい入って。ね。だから途中へんの所に適当に入れますと、ね、手は当たるにもよし、膝を寄せれば膝までも温かいというように、あの火鉢というのは、せなければいけないのだけれども灰のほうがあんまりいっぱいなもんですからね、寄ったらちょっと熱いごとある、側に寄りゃ冷たいという感じ。ね。
 結局、今朝から頂きます、有り難く頂いて帰ればと言うところが出来ていないのだ。ただ、有り難いと思うて聞くことは聞いた。はいということ。そうだな、そうだなと思うて聞いた。だけどその灰がいっぱいだもん。今合楽では、口を開けば私が合楽理念とこう言う。合楽理念の言うなら日々が実験実証である。それでまあおかげを頂いておりますけれども、私が日々神様にお願いをしております、いわゆる日参、教聴、心行、家業の行。合楽理念の実験実証、ね、させて頂きながら、日勝り月勝り年勝りのおかげを頂かせてくださる。
 そして、信心の真を現しては代勝りのおかげとまで進ませてください。真善美に輝く世界、貧争病のない世界にも住まわせてください。これは私の御祈念の中の一節なんです。ね。そういう言うならば、日勝り月勝り年勝りにおかげを頂いて、しかもそれが信心の真を現しては代勝りのおかげの頂けれる基礎、土台というものを私共が頂いておらねければならない。ただ毎日お参りして、ご理解を頂いて、はい、はいっでいっぱいは溜まったけれども、ね、そのはいが消化されてない。
 消化されるという事はね、私今日いよいよ思ったんですけども、これはもう頂きぬくことだということなんです。ね。もう貫くという事です。ね。もうそれは、金光様のご信心は、この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと、まあ簡単に教えておられますけども、なかなか喜べたり、喜べなかったりですけれども、一心発起して本気でもうこれで行こうと心に定めて、ね、それをしようとして頂いて行くうちには、それが辛い事ではなくて楽しい事になって来る、有難い事になって来る。ね。
 その黙って治めるなら黙って治めるということが、言うなら黙って治めるだけではなくてその事を有り難く受けて行くと言うことが本当だと言うことが身を持って感じられ分かって来るようになる。ね。昨日、一昨日、28日ですね、28日が竹よう会でしたが。もう、皆さん佐田先生の司会で皆、一人一人発表しておりました。最後に、私の方の古川に嫁に行っとります、豊美が発表しておりました。皆さんもご承知のようになかなか喧しい人ですけれども、最近はもうほんとに、いわゆる何かもう日々私のそこへ座って来て、奉仕をさして頂いておるのが楽しゅうして、まあこたえんまではなかろうけれども有り難そうにして座っておる。
 発表を求めましたらお話をしてもいいでしょうかと言う。(     )おかげ話、言うなら自分の信心話さして、なら今私が通らして頂いておるところを。けれどもお話をすると勿体無い。こぼれ落ちるような気がする。と言うて話し出してから泣き出してしまった。ね。それは、悲しいとか苦しいとかということではなくてです、他の事は出来ませんけれども、言うならば、ね、黙って治めるという事の素晴らしさがこの頃分かって来た。ね。それを、っとこう辛抱させて頂きよったら信心辛抱の方にまで身がいってきた。楽しゅうなってきた。教えがしんから自分に入るようになって来た。ね。
 ですから、もう一言いよいよ本気で行事出したところが、もうそれこそ口を開けたら勿体のうて涙がこぼれ落ちるようにあると言うのです。確かにそうです。一心発起しなければなりません。今日も秋山という先生がおりますが、今朝から頂いておるお知らせに、一心一平と頂いておる。一心とはもちろん一心の事。一つの心。一平というのは、一つの平たいと書いてあった。まあそんなら、ものは字引なんかを引いてもないでしょう。
 すぐその後に、四国から今修行に来ておる先生がおります。まあ、元旦だからでしょう。なんか一筆書いてくれと言うて持ってきましたから、今、秋山先生が頂いたという一心一平と書いてやった。どういうことでしょうかと。一心ということは分かるね。一心を立てるということ。ね。もうとにかく平生心。心は信心のじょうぎじゃによってとおうせられる。自分の心は自分の信心のバロメーターである。ね。
 いつも自分の心が平生心にあるどういうことを聞いても起こってきてもこの平生心を失ってはならんと構えておることだよ。他の事はいらん。もう取次ぎをさせて頂く者は、心が乱れておったり、心に情けないとか、苦しいとかと言うて、人の情けないとか、苦しいとかということは入らない。入ってこない。もう、2・3年も前でしたが、ある教会の先生が、もうお年の先生ですが、なかなかきょうがく派な先生。だから、私共のようにお夢を頂いたのお知らせを頂いたのといったような事は意味が分からない。
 ところが、時々でも合楽にお参りをさせて頂いておるとなにかそれが分かるような気がしてきた。そして、はあこういうのが御神夢というのであろうかというお夢を頂いて参拝をしてきた。先生自身が船に乗っておられる。家庭的な問題で難儀な問題をまあ持っておられるわけです。すぐの小さい船には、長持が入れてあるタンスがこういっぱい入れてある。ああ、積んである。
 始めの間は良かったけれどもだんだん沖の方に出るにしたがって、その風が出てきてからこう船が揺れだした。ですからタンスがこう揺れるたんびにこうタンスがこう飛び出そうとするわけ。(    )飛び出しちゃならんと思うて一生懸命でタンスの引き出しを飛び出らんようにこうやって押さえておるところでございました。ね。これではやはり信者が助からないはずだ。
 自分自身が自分の家の家庭の事で難儀しておるし、もうその事だけで胸がいっぱいだ。先生どうしましょうかと言ったようなお願いがなんかは、もうあんたがだんじゃなか、もう私の方が苦しかと言うて、まあお取次ぎしたところでそれでは本当のお取次が出来るはずがない。今言うように一心一平自分の心は、もう神様へいつ捧げてもよいような、いつ神様に見て頂いても良いような平生心の心でお取次させて頂かなければいけないよということで、と言うて説明したことです。
 とにかく、その教会と言うお徳の船に乗っとるんだけれども、自分の荷物だけでいっぱいなんです。だから、信者が乗せてください、助けてくださいと言うても乗るところがなか。これじゃ信者は助からん。もう自分の物はかなぐり捨てて、さあ助からなければならない人が乗って下さいというようにならなければ、やっぱ人は助からんですよねと言うてまあお話をした。はあ、こげなんお夢ならば、御神夢ならばですね、私どものように、まあ分からんもんでも分かると言うて、それから、ああまあ、まあ参って見えませんけれどもそういうお知らせを頂いた事がお取り次ぎをさせて頂いた事がございます。ね。
 信心をさせていただいとるとはあります。心配がある、不安がある。お取次ぎを頂く、御理解を頂く、心が平生心になる。または、どう心配が尽きない。その心配する心で信心をせよとおうせられるから、心配をさせて頂いておると、その心配よりももっと有り難いものが心の中に頂けてくるようになる。ね。ですから、百の心配があっても、二百の有り難いものがあるから差し引くともう心配はないといったような心の状態で過ごして行けれるのが信心だと思います。
 心配事をお願いする、頼みます。というだけのおかげから、ね、自分の言うならば平生心、自分の心に頂くおかげの受け物を持っておかげを受けるというおかげ。ね。そういう私は今年の合楽の信心はね、もうとにかく合楽理念、合楽理念と言うから、まあ言うならば人にでも説明できるくらいに、合楽理念とはとまあ説く事も話してあげることも出来る。ね。ですからそれがいよいよ、自分の血肉になるというおかげ。その中の言うならば芯になるところ、これなら自分にというところを頂いて、それが血肉になっていく。
 ね、そこの久保山さんではないですけれども、もう7・8年も信心を続けておられて、毎日願われることは、今日も成り行きを大切にさせて下さい、尊ばせて下さいである。だんだん信心になるほど、失敗することもありますけれども、それをいよいよ毎日お取次ぎを頂いておかげを頂いて行くうちにそれが出来ることが楽しゅうなってきた、有り難くなってきた。そして、7年立ち、8年立ちするうちに分からして頂いた事は、これはほんぜんとしたものであった。先だっての合楽会で発表しておられましたが、不思議なことにね、本気で成り行きを尊ばせてもらう。
 大切にさせて頂くことの実験実証が、ならどういうふうに現れてきたかと言うと、あたしのように我が強かった、私のように我情が強かったもんなら、ね、このように我情を言わんですむ、我欲を言わんですむ自分に気がついたということを発表しておられます。だからね、合楽理念の一言でも、なら成り行きなら成り行きを大切にするというか、黙って治めると言うか、もうこれに徹するということなんです。
 徹しておるうちにです、もう我情を言うとっては馬鹿らしか、ね、我欲を言うては損だ。ね。そして言うなら心がきつい。我情があっては、我欲があっては、いつも心に不平や不足があるけれども、不平不足がなくなっていくということは、そのまま我情我欲がなくなっていっておる。ですから日々が神様のお徳の中に浸っておるようなおかげが、経済の上にも、健康の上にも、最近は人間関係の上にもほんとに素晴らしいおかげを受けておると言うお話でございました。ね。
 だから私は今日、まあその秋山先生が頂いておりますように一心一平である。一心を立てなければならない。ね。心を汚すまい、乱すまい。いつも構えてどういうことを聞こうが見ろうが、それこそ御結界に奉仕をさせて頂いておる時も先生方その事に精神するわけですけれども、ね、今ならばどういう難儀な問題を持ってこられても、ドッコイと受け止めてお取次ぎが出来る。と言ったような心の状態を作って行く事に精神することなんだ。
 構えを作っておくことなんだ。ね。いつもお話いたしますように、阿倍野の伊藤こうというもう80からのお婆様ですけれども、その方はなかなか学のあるお方でもあります。良い頭のいい優れた先生には似合わない、ただ、もうとにかく有り難いごみでのようなお方。有り難いの一念であれだけのお教会が発展し、あのごひれいを受けておられる。沢山の人が助かる。毎朝、朝の御祈念に千名からのお参りがあるという。毎月月参りの御本部参拝は二千名からの信者を引き連れてのご参拝だということでございます。
 別にお話が大変、まあ合楽のようで、お話が、もう、合楽の場合は私に力がない。お徳がないから、合楽は御理解力と言われるのですから、その御理解力を皆さんが頂いて頂いて頂き溜めて、それこそ火鉢の中に灰がいっぱい溜まっとる。というのも現状じゃないか。そしてなら、信心の熱情も持っておるから火がグルグルするほど熾っておる。ね。だからその自分のグルグルするごと熾っとるその情熱を人にこうやって伝えようとすると、ね、とてもあんたどんが(    )頼まなでけんと言うてかえって、こう煙たがれるというか離れられる。
 そして実際、側に寄ってみると暖かいことはない。火鉢の下の方は、ね、冷たいでしょうが。灰が上の方にあるから。ね。とにかくもう、あの人の側に行ったら外れられんようなね、その魅力を頂くということは、信心の教えがいよいよ血肉になった人達の姿の中にあるんじゃないかと思います。ね。阿倍野の先生が言うならば、もう6・70年ぐらいになりましょうね、あちらお教会は。ね。どこにその元があるかと言うと、教祖様の有り難しで開けたんだから有り難いで苦労はさせんと言う。その力がお徳が沢山な人が助かるということになってくる。
 大阪に、せんなんという教会があります。まあ言うならば、大変合楽びきな先生です。私どもが大阪講演に参りました時に、講演が終ってから合楽の信者さん達が2・30人くらい来とりましたでしょう。ホールに出ろうとした(  )私のとこに来てから、合楽教会バンザーイっていうてからあの言われた先生ですよ。たいていならやっぱファンでなかならきゃあげなんこと言われんですよね。声を掛けるだけでもなかなか出来ません。
 の先生が御本部で御説教なさっておられる。それを教報で読ませて頂いた時にたまたま伊藤先生のお話が出ておった。伊藤先生がある時に、せんなんの教会にお見えになられた。それで奥様が、あのせっかく見えたんですから一言でもよいからなにかお話を頂かして下さいと言うて、まあお話をお願いされた。ね。そして、伊藤先生がお話になったのが、しあんこへ行っておられた。ね。そして、まあある(  )でお道の教師になられたわけですけれども。ある時に、落語を見られた、聞かれた。
 そして、ええー、継子いじめのお話を聞かれた。ところがその、継子になる人がもうほんとに純粋な人で、ね、お母さんに例えばいじめて、いじめ抜かれても有り難い、勿体ないで受けていかれる。ね。ある時にお魚が出てきた。ね。もうそれこそ肉も何にもついてない、身もついてない頭のところだけが出してある。それを見てその、まあ息子さんが喜んだと言うのです。お母さんがね、末は、是非とも頭にも立たせてやろう。人の頭にもなれよと言うて頭を付けて下さったと言うて喜んだ。ね。
 次には、今度は、もう、ほんな尻っぽだけを付けてやった。ところがその人が、また喜んだ。大阪辺りではしっぽの事を尾と言います。魚の尾と言う。ね。(   )神様が、お母さんがね、もう尾にもなれというて尾を付けて下さったと言うて喜んだ。もうどげんしったって喜こんどる。腹ん立ってきた。それで、もうモヤモヤしてから、真ん中よかとこを付けたって言う。ね。もういよいよもって喜んだと言う、まあ笑い話を聞かれながらね、(        )
 そういう例えば、その馬鹿のようなウソも、ほんとではなかろう、その話をです、ははあ、これでいこ、自分の一生はもうこれに決めたっち。ね。そして、それに決めて、言うなら60年70年間通して来られたと言う事なんです。徹し抜かれたんです。そこに、ああいうご自身の、勿論おかげはもちろんですけれども、あれだけ沢山の人が助かるほどしのおかげになった。貫かれたんです。三代金光様も、信心には辛抱する事が一番大切でございますと仰せられる。
 これと決めたもの、言うなら一心一平である。これと一心に定めたものをです、ね、それは、なら成り行きを大切にする、黙って治めると言ったような事でもです、なるほど失敗もありましょうけれども、それを苦っせず行じて行っておるうちに、はあ、この修行の有り難いということが分かってくる。もうそうしなければ馬鹿らしゅうなってくる。この有り難いものを人に伝えよったらもうそれこそ、涙がこぼれ落ちそうにある。
 とてもとても、不思議な不思議な働きというものは、ただ成り行きを尊ばせてもらう、大切にさせて頂いておる言う間に先生が言われるあの、とても我情とか我欲なんか、そりゃあ神徳の中に生かされてある事が分かろうけれども、人間が我情我欲を取るというのはまたとても出来ないし、難のものと思うておったものがこの頃だんだん我情がかげを薄めてきた。我欲がなくなってきた。
 そこには、経済のおかげにも恵まれるようになった、健康の上はなおさらのこと、取り分け人間関係の上に、もうそれこそ微妙なまでのおかげを受けておるというお話がです、ね、もうだから、はあ、今日もまた成り行きを大事にせんならん。今日もまた黙って治めにゃならん。と言う意味でなくて、もうそれこそ構えておるのですから楽しいのです。有り難いのです。それがいよいよ有り難いものになってきて、それが一つのお徳を形成する。お徳になっていく。ね。
 私が、今年はね、そういうような信心を合楽の皆さんはなさらなければいけんのじゃないだろうか。沢山頂いておられるその、灰もです。ね。それをほんとにひとつ頂いたものを一つ一つ、自分の血肉になるような実験をさせてもらい、でそこから生まれて来る実証を尊しさして頂いておかげを頂いて行く。ね。昨夜の、除夜祭にも申しましたように、ね、お百姓さんでもいろいろある。
 いつもあそこの畑は草だらけというお百姓さんもあるかと思うと、ね、もう草があったらもうほんとに生えたら、まあたんぜんに草取りをなさる。もうあそこの畑ばっかりは、いつ草取りござるじゃ分からん、もうあそこに草一本でも見た事がないというほどしの、まあお百姓さんであるならば、そういうのを篤農と言うのだと。もうその百姓そのものが、もう有り難いもの。仕事に出る事が楽しいもの。あのね信心もね、やはり篤信と言われるような信心にならなけれがいけない。
 合楽ではその篤信にならせて頂けれる手立てがこれほどしに説いてございますのですから、ね、言うならば皆さんが、理解力が出来た。ね。なるほどそうだと信ずる事も出来た。ある意味ではそこにおかげの実証がありますから、それを見、聞き取る、する事が出来るのですから。ね。それを、自分のものにさせて頂こうとする一心発起をさせてもらい、言うなら一心一平のおかげを頂いて、ね、それが楽しゅうなる。有り難うなるところまでね、もうとにかく所々じゃなくてね、もうそれに徹するという。ね。
 ひとつ、信心を今年はさせて頂きたい。もう今年こそはと。今年こそは、とまあ、申しますけれども、それは信心のないもの、薄いものの言う事です。ね。今年もまたおかげを頂かせてもらおう。今年もまたいちだんと信心を進ませて頂く、と喜び楽しいという事になってまいりますとね、お正月ならお正月、勿論これは、一つの節ですから必要なんです。ね。だから初めの間は演出してでも、それこそ、んー、元旦の見るもの見せん富士の山と言ったようなね、それこそ、書き物でもなんでも、めでたいものと取り替えて、そして気分をおめでたい気分にしよういうようなものではなくて、いつもがめでたいのだと。いつもが有り難いのだと。という信心でなかならければ、ほんとの信心生活にはなりません。
 今日も御用にお使い回しを頂いたと言うても、損でもするともう、今日はもう一生懸命働いたばってん損したと言う事になってくる。一生懸命の御用させて頂いたということになると、損とか特かもう問題でなくなって来るんです。そういう日々ができるようなおかげ。言うならば合楽通いは、ほんとに、やはり、篤信を目指す事。ね。そして言うなら、これは皆さん、今年はこれで行くというのじゃなくて、皆さんの言うならば、好いたみ教えでいいじゃない。また自分のぶんに合いそうなみ教でも良いじゃないか。合楽理念の中から一言でも、それをいよいよ今年は自分の物にさせて頂こうと。
 今年こそではなくて、ね、今年もまた、私は、昨夜の除夜祭の内容というものをあそこへとばんに書かせて頂いた。皆さん読んで下さったと思うんですけれども、ね、それこそ、朝日を拝む者はあるけれども、今日はもう(    )なんて言ってもそれこそ、もう寝らんなら拝みに行くですけれども、なら夕日はどこにか拝みに行こうちゅう者はおらんでしょうが。ね。朝日を拝む者はあるけれども、夕日に礼する人がない。信心さして頂く者は、そこんとこが平行していかなきゃならない。
 自分の思うようになったことだけが有り難いのじゃない。思いをんなら、のかった時には、もっと神様はある意味合いでは辛い思いをなさっておられる。ある意味合いにおいては、私共のおかげの受け物が出来ておる時ですから、ね、お礼を申し上げなければならんのだけれども、自分の思うようになったら、ね、朝日は拝むけれども夕日は拝まない。それで一年を振り返らせて頂いて思う事、それこそツラツラ思うてみると、様々な事があった。それぞれの家庭の中でもそれこそお話なっておるでしょう。家の重大ニュースはなんじゃろうかと。その重大ニュースの中には有り難い事もありゃあ、有り難くない事もあるんだけれども、けれどもお母さん、これのおかげで家の信心が、ね、シャンとしたんだよと。
 例えば今の、秋山先生の両親じゃないですけれども、ね、今度は秋山誠治君宅の結婚という話が出る、出た一月位前から、ね、もうそれこそ合楽で総代までもなされ、そして長年の信心ではあったけれども、初めて秋山さんが合楽の信心に目覚められたのだなというような感じがする雰囲気にいつでも出来るようになった。ね。神様だけにご迷惑かけるけん、親先生だけに御ご苦労かけちゃいかん。というようなところからだったでしょうか、とにかくその、お参りのそのあり方が変わってきた。ね。それこそ今年もおかげを頂かして下さい。今年こそはと言ったようなものではない。
 一心発起するとそれがね、有り難く、楽しゅう出来て来るようになる。ね。そしてなら一年を振り返ってみるといろいろ、それこそ悲喜交々ですけれどもそのすべてが、ね、お礼を申し上げる事ばっかりであったと分からして頂いて除夜祭に望めると私は申しました。ね。今日でも、今日からでも遅くはありません。去年一年の事を振り返ってみて、今年こそはと思いよったけれども、今年こそはじゃない、今年も、それがね一年中の事が、あれもおかげであった、これもおかげであったと見当されて、ね、それがおかげで信心の稽古が出来る。
 そういう内容を持って一年の締めくくりとさせてもろうて、この元旦祭を拝まして頂くことになると、ね、今日私が申します、ね、元旦を、言うならば忘れるような、ああ今日お正月じゃったのうというようにわざわざ特別に演出しなくっても、いつの、ありのままの姿の中に元日を感じさして頂く事ができるようなおかげ。金光大神の言うならば、悟りの境地とでも申しましょうか、金光大神の世界。ね。そうした日々が、ね、大晦日と思うて一日一日を大事にされる。または、元日と思うてというような信心が繰り返される。ね。
 そこには、もう日々が元日であり、大晦日であるというようなね、そげなんおかげばってんなんて私ども、まあいろいろ思いよりましたけれどもね、そうあらなければ馬鹿らしい。せっかく合楽でこれほど、言うならばみ教えを頂いておりますから、ただ灰が溜まっただけで、聞いて帰っただけで、家に帰って我、自分のいいようにするからおかげはなしと断言しておられます。ね。有り難く頂いて帰ればと言う事は、有り難く聞いて帰ってそれを、なるほどそうだなとそれを日常生活の上に生かしていく生き方。
 そこには、やはり勿論ですではなかなかなりませんから、大きなしわく中に、いつもじがひだれがはえっておるでしょう。ね。それでいて、適当に灰が入っておりますから、ここに集まって来る人、もうとにかく冷たい時は、寒い時はあそこへ行けば温かい。外れたくないような、言うならばものも、自分の上にも家にも出来て来るようなおかげが受けられる。そういうおかげを願いたい。ね。もうなんでもよい。もう合楽理念の中にあるこれをというものをです、もうとにかく、まあそれこそ、戦時の道も一歩からと言うのですから、ね、そういう自分の生活に徹して頂いて行く生き方を身に付けていきましょう。私ももう限りなくこれは続けていかなければならない事でございますから。ね。
 合楽も、昨日(      )起こしよる時に、竹内先生が、今年は47万、こりゃまあ、途中、(      )でしたですけれども、また、(    )が多くなっとるでしょう。丁度、去年よりも4万3千名御届け帳が増えておる。ね。日勝り月勝り年勝りに合楽の場合はそして実証がしていっておる。だから皆さんの上にもです、日勝り月勝り年勝りの実証を、ね、して見せれる信心。それは、やはり貫くところから頂けれる、それこそ思いもかけない。成り行きを大切にさせて頂くという事に徹底させて頂いたら、ね、言うなら5年、6年立っていっとるうちにいつの間にかとてもとても難しい我情我欲がかげを潜めてきておる。
 それに従っておかげが受けられておる。ね。口を開いて話をすれば、それこそ有り難さがこぼれ落ちるように有り難いものが、はあ溜まってもう、ほんにこげんはがいい事はなかというのではなくて、もう黙って治めるって事がこんなにも有り難いものだと実験実証していっておるその、私の娘の話をさせて頂きましたが、確かにそうです。もうほんとにそうです。ね。ですからそう有り難くなれれるおかげを頂いて、ほんとにおかげをおかげと、それこそ、阿倍野の先生じゃないですけれども、ね、もうこれは私の一生の、ね、言うなら、芯にしようと阿倍野が感じられたという話を泉南の親奥さんになさっということである。
 その話をそのまま教報に載っており、いや、ご本部で御説教なさっておられるのが教報に載っておった。それを見せて頂いて、私もその日の内に、朝の御祈念が終わってから、阿倍野の先生のところにまいりました。この人、高橋さんと。もう衝動的ですけれどもね。もう行かずにはおれなかった。もう80いくつか、いつ亡くなられるやら分からん。そういう方の有り難いという、それにとにかくいっぺんでも良いから触れておきたいと思った。ね。そして私は先生にお会いさせて頂いた。もうそれこそ、もう私共が真似の出来る事だんではありません。
 実意丁寧と言うて、これ以上の実意丁寧があるだろうかというような先生の実意に触れさせて頂いた。しかもあの時は丁度、泉尾の、あちらの阿倍野の教会の50年の記念祭という、もう一番先生がもう有り難い、もう有り難いの一念でおられるその翌日、御大祭の翌日、大祭の日に行っとる。そして、私共泉南に一泊したんです。最後先生の所にですね。(    )今日はあなた、あちらは大祭でしたから、いやあ、もうこちらがとにかく阿倍野の先生の一番有り難いものに触れたいと言うてわざわざ九州(   )からまでも、その行ったから、神様が一番阿倍野の先生の有り難いものを私共に見せてくれ。
 その有り難いというものも、ただで出来るんじゃないです、こういう実意丁寧な神信心が出来られるからこそこの有り難いのがいよいよ身に迫がかかり、わにわをひゅるひゅる大きな有り難いものになってきたんだと言う事を、もう目の当たりに教えて頂いた気がいたします。ね。これは、前にも聞いて頂きましたし、またいつか聞いて頂きましょうけれどもね、もうとにかく、実意丁寧な権化、そして有り難いの権化、とはこう言う人を言うのであろうかと思うような信心がだんだん身に付いて来るです。もう一切が有り難い。ね。
 だからもう、とにかく一番初めにね、とにかく私どんにでけんってなんて言わずに、とにかく一心一平のね、とにかく心を起こさせてもろうて、ね、これだけは貫いております。そしてその貫かして頂いておることがこんなにも有り難いものだ、こんなにも喜ばしいものだということを、ね、しかもその一つが、他のみ教えまで、こう、まあ溶け込んで行くような、そして他のみ教えは案外み易う、だんだん身に付いて来ると言うようなおかげが頂かねばです。ね。一心一平、ここを今日は聞いて頂きました。どうぞ。           ゆきこ